南燕と公孫氏

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
慕容德字玄明,皝之少子也。母公孫氏夢日入臍中,晝寢而生德。

南燕の初代皇帝・慕容徳の母は「公孫氏」です。慕容皝の側室の一人でしょう。

慕容垂(と慕容徳)が前秦から自立した時、前秦の(涼州)張掖に住んでいた慕容徳の兄の慕容納慕容徳の子と共に誅殺されましたが、慕容納の母の公孫氏は耄(高齢の老人)であるとして殺されずに済みました。

この「公孫氏」は同一人物であり、慕容納慕容徳は同母兄弟でした。

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
後遇暐敗,徙于長安,苻堅以為張掖太守,數歲免歸。及堅以兵臨江,拜德為奮威將軍。

慕容徳前秦の張掖太守だったことがあり、離任した後も家族を張掖郡に残し、兄や母と共に住まわせていたのでしょう。

『晋書』巻一百二十八、慕容超載記
慕容超字祖明,德兄北海王納之子。苻堅破鄴,以納為廣武太守,數歲去官,家于張掖。德之南征,留金刀而去。及垂起兵山東,苻昌收納及德諸子,皆誅之,納母公孫氏以耄獲免,納妻段氏方娠,未決,囚之于郡獄。獄掾呼延平,德之故吏也,嘗有死罪,德免之。至是,將公孫及段氏逃于羌中,而生超焉。年十歲而公孫氏卒,臨終授超以金刀,曰:「若天下太平,汝得東歸,可以此刀還汝叔也。」(中略)德遣使迎之,超不告母妻乃歸。及至廣固,呈以金刀,具宣祖母臨終之言,德撫之號慟。

そして公孫氏慕容徳の故吏の呼延平に連れられ羌中に逃亡。
(この「羌中」は涼州の南、益州の西に広がる地域であり、現在の青海省とその東南一帯が該当します)
呼延平は投獄されていた慕容納の妻の段氏も連れ出しており、妊娠していた段氏慕容納の子を逃走先で生みました。これが385年に生まれた慕容超です。

慕容超が10歳の時に(祖母の)公孫氏は死去。その時に慕容徳が張掖に残した金刀を授かり、慕容徳に返すように遺言を受けます。
403年に後涼が滅び、長安に移った後に慕容超南燕と繋がりのある者に接触すると共に後秦を脱出し、南燕の広固に到着(405年)。
叔父の慕容徳に祖母「公孫氏」の遺言を伝えると共に例の金刀を献上し(4月)、皇太子に立てられ(10月)、直後に慕容徳が死んだため南燕の皇帝に即位しました。
「金刀」が決め手となって慕容徳の同母兄の遺児として認められ、当時息子のいなかった慕容徳の後継者に選ばれたのでしょう。


公孫氏は離別した2人の息子の系統の橋渡しになったと言えますね。

タグ:南燕

1件のコメント

[C32]

公孫五樓は奸臣ですけど重用されてますよね
  • 2021-03-18
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