馬超の無礼事件2

「馬超の無礼事件」の案を4つ考えてみます。

[1]214年後半頃の出来事説
実は益州平定後、論功行賞などのために関羽を一時的に益州に呼び寄せたことがあったのではないでしょうか。
関羽は益州に居た諸葛亮法正張飛と共に金五百斤・銀千斤・銭五千万・錦千匹を下賜されており、その場に居たほうがスッキリしませんか?
このパターンなら黄忠趙雲も集まれるので、「五虎大将軍大集結!」なんて場面もできます。
張飛が巴西太守として地方へ出る人事よりも先になり、さらに馬超を早々に屈服させれる点でも都合が良いタイミング。
なお、関羽伝の記述通りとすると董督荊州事になった後ですが、明確に時期が書いていないので、益州に入ってから督荊州事として荊州に戻ったとするのは無理ではないでしょう。
また、214年秋から冬にかけて曹操が揚州に出撃しており、襄陽に居た楽進は少なくともその時には揚州方面に移動しているので(そのまま翌年に合肥の戦い)、関羽が荊州を留守にできるチャンスでした。


[2]215年前半の出来事。
関羽が益州に入った事情は[1]と同じか、曹操の西征(張魯討伐や氐討伐)への対応などが考えられます。
あるいは、劉備孫権が派遣した諸葛瑾に対して「涼州攻略の計画を立てている」と答えており(215年)、涼州方面に侵攻するために益州に戦力を集中させていたかもしれませんね。
さて、諸葛瑾が戻ると孫権は荊州が譲渡されないと判断して自分側の役人を現地へ派遣し、彼らが関羽に追い払われると軍勢を出して直接制圧しようとします。その後、孫権側は南部を制圧し、益州から来た劉備とにらみ合いになりますが、(7月に)漢中に曹操が進出すると和睦して荊州の再分割が行われ、劉備は益州に戻り、孫権軍は合肥攻撃に転じました。
この荊州を巡る流れで最初の直接行動である役人派遣は、諸葛瑾を派遣した段階で関羽が益州に居たことから、好機と見て試したというのはどうでしょうか。
諸葛瑾が戻ってから孫権が役人を送るまでの間に関羽が荊州に戻っており(余裕で間に合うでしょう)、失敗は想定外だったのかもしれませんね。


[3]215年後半の出来事。
孫権軍の侵攻に対して荊州入りした劉備の陣中には張飛馬超が居た可能性もあるのではないでしょうか。
荊州問題が一段落してから劉備らに会った関羽がそこで始めて馬超の無礼を知って事件が始まり、馬超と会っていた期間がより長い張飛の進言で落とし前をつけたという流れ。
当時の張飛は巴西太守だったはずですが、向朗も益州平定後に巴西太守となったという記録があり、非常事態に対して張飛が一時的に離任したため、向朗が代わりを務めたとも考えられます。
張飛抜きで)帰順したばかりの馬超を前線に残すとも思えず、ただ成都などの置いておくよりも孫権陣営にも威名が知られていた馬超を連れて行くのも良い手でしょう。(例えば過去に周瑜馬超に2度言及しています)
曹操の動きに劉備が焦ったのも益州がかなり手薄だったから?
また、益州の治中従事だった彭羕は荊州に入っておらず、荊州で馬超が改心したことを把握せずに迂闊な事を言って事件になったのかもしれませんね。


[4]関羽不在説。
似たような出来事があったものの、関羽はその場にいなかった可能性もあるでしょう。伝聞だったり、話を膨らまそうとして余分な人物や描写・発言が付け足されるのは珍しくないことです。
例えば、実際に馬超が増長して逸話にあるような無礼を働いた場合は、関羽でなくても処罰を求める者がいてもおかしくないでしょう。そこで張飛などが思い知らせた出来事に「関羽なら関わりそう」として後で付け足された?
あるいは、劉備が問題があると内心思って張飛らを使って解決したというのもありでしょう。
誰か(巨漢の趙雲?)が関羽の代わりを務めたとしても面白いですね。
いずれにしてもこの説なら馬超が帰順してかなり早い段階も含めて、いつでも「原型となる出来事」を起こせるので、「馬超がそんなことするはずがない」という主張を通さない限りは、否定できないでしょう。(もちろん、あった証拠も特にありませんが)


タグ:蜀漢

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