彭羕の死

『三国志』巻四十、彭羕伝
先主亦以為奇,數令羕宣傳軍事,指授諸將,奉使稱意,識遇日加。成都既定,先主領益州牧,拔羕為治中從事。羕起徒步,一朝處州人之上,形色囂然,自矜得遇滋甚。諸葛亮雖外接待羕,而內不能善。屢密言先主,羕心大志廣,難可保安。先主既敬信亮,加察羕行事,意以稍疎,左遷羕為江陽太守。
羕聞當遠出,私情不悅,往詣馬超。超問羕曰:「卿才具秀拔,主公相待至重,謂卿當與孔明、孝直諸人齊足並驅,寧當外授小郡,失人本望乎?」羕曰:「老革荒悖,可復道邪!」又謂超曰:「卿為其外,我為其內,天下不足定也。」超羈旅歸國,常懷危懼,聞羕言大驚,默然不答。羕退,具表羕辭,於是收羕付有司。
羕於獄中與諸葛亮書曰:「僕昔有事於諸侯,以為曹操暴虐,孫權無道,振威闇弱,其惟主公有霸王之器,可與興業致治,故乃翻然有輕舉之志。(中略)至於內外之言,欲使孟起立功北州,戮力主公,共討曹操耳,寧敢有他志邪?(中略)」羕竟誅死,時年三十七。

彭羕劉備の益州攻略に現地で先んじて合流し、法正龐統の勧めで起用され、益州平定に貢献すると治中従事に抜擢されました。
甚だ増長していた彭羕でしたが、(諸葛亮の進言があった後に)江陽太守へ左遷が決まると、面会した馬超に不埒な発言(反乱を示唆)をぶつけたことから通報され、逮捕。そして処刑されました。


ところで、日本語版ウィキペディアや一部の日本人はこの処刑の年を214年か215年としていますが、根拠がよくわかりませんね。
一方、一部のサイトでは220年没となっています。これも根拠不明。三国志演義の情報が混ざっているような気がします。(曹丕即位後から孟達離反の間に彭羕の処刑)

治中従事は221年の劉備即位の時には楊洪が在任しており、その前には219年頃から黄権が就任していることから、彭羕の没年の下限はこの辺り。
ただ、221年の別駕従事の趙莋(趙笮)は列伝が無く、他の官歴もほぼわからない人物であり、別駕や治中でギリギリ記録に残らなかった者がいても全くおかしくはないでしょう。

最後の獄中から出した書簡では「孫権無道」とあり、孫権と対立又は関係悪化していた時期だったと思われます。
また、書簡で問題発言の弁明として「討曹操」という表現があり、220年初頭以前なのは確実。

以上から、「彭羕の死」は215年の荊州騒動後から217年の馬超の出征までの間か、219年の漢中平定後が相応しいでしょう。

タグ:蜀漢

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