劉巴の死

『三国志』巻三十九、劉巴伝
後代法正為尚書令。(中略)章武二年卒。

尚書令の劉巴は222年(章武二年)に死去。これはちょうど「夷陵の戦い」で大敗した年です。まさか・・・。

『三国志』巻三十九、馬良伝
先主稱尊號,以良為侍中。及東征吳,遣良入武陵招納五溪蠻夷,蠻夷渠帥皆受印號,咸如意指。會先主敗績於夷陵,良亦遇害。

従軍した侍中の馬良はこの敗戦により死亡しています。

『三国志』巻四十、楊儀伝
及先主為漢中王,拔儀為尚書。先主稱尊號,東征吳,儀與尚書令劉巴不睦,左遷遙署弘農太守。建興三年,丞相亮以為參軍,署府事,將南行。

劉巴も東征に関連した記述があります。
もし「夷陵の戦い」に従軍し、終わる前に死んでいたならば、陣没扱いになるのではないでしょうか。


ここで後任の尚書令、李厳を見てみましょう。

『三国志』巻四十、劉巴伝
章武二年,先主徵嚴詣永安宮,拜尚書令。

222年に李厳が永安宮に召集され、尚書令に任命されます。劉巴の死はそれ以前のはず。

『三国志』巻三十二、先主伝、章武二年
夏六月,黃氣見自秭歸十餘里中,廣數十丈。後十餘日,陸議大破先主軍於猇亭,將軍馮習、張南等皆沒。先主自猇亭還秭歸,收合離散兵,遂棄船舫,由步道還魚復,改魚復縣曰永安。吳遣將軍李異、劉阿等踵躡先主軍,屯駐南山。秋八月,收兵還巫。司徒許靖卒。冬十月,詔丞相亮營南北郊於成都。

222年の6月に「夷陵の戦い」で敗れた劉備は魚復県に撤退し、その地を「永安」と改称しました。劉備が永安宮に入ったのはこの時ですね。
李厳の召喚はそれ以降となりますが、これだけでは李厳の就任時期が多少絞り込めても、劉巴がいつ死んだのかまでは分かりません。

犍為太守の李厳劉巴の死後に呼び出され、年内に永安宮に到着したとすると、せいぜい劉巴の死は年末では無さそうとしか言えませんね。


『三国志』巻四十三、馬忠伝
先主東征,敗績猇亭,巴西太守閻芝發諸縣兵五千人以補遺闕,遣忠送往。先主已還永安,見忠與語,謂尚書令劉巴曰:「雖亡黃權,復得狐篤,此為世不乏賢也。」

ところが馬忠伝によると、劉備が大敗して永安宮に戻った後に、尚書令の劉巴に対して「黄権を失ったが、狐篤(馬忠)を得た」と述べています。

つまり、「夷陵の戦い」の後にも生きていたということですね。

魏志では8月に黄権に降伏しており、華陽国志では11月に劉備の容態が悪化していることから、上記の会話は8月から10月頃の話かもしれません。

おそらく秋か冬に(劉備の体調が悪化していく中で)劉巴は永安宮にて亡くなったものと思われます。

タグ:蜀漢

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