蜀漢の術士

『宋書』巻二十七、符瑞志上
春秋讖曰:「代漢者,當塗高也。」漢有周舒者,善內學。人或問之,舒曰:「當塗高者,魏也。」舒既沒,譙周又問術士杜瓊曰:「周徵君以為當塗高,魏也。其義何在?」瓊曰:「魏,闕名也。當塗而高,聖人以類言耳。」

後漢の時、周舒は讖緯にある「代漢者」の「當塗高」とは「魏」を指すと解釈し、実際に王朝に代わって王朝が始まりました。
後にこれの理屈について「術士」の杜瓊譙周に解説した記録があります。

ここで出てくる「術士」とは、占術を含む「術数」を扱う者のこと。
(術数を扱う者自体は占い師や方術士っぽい人から立派な学者までいましたが「術士」と呼ばれるのは少なく、特に術数に精通した者が対象でしょう)

『三国志』巻四十二、杜瓊伝
杜瓊字伯瑜,蜀郡成都人也。少受學於任安,精究安術。劉璋時辟為從事。先主定益州,領牧,以為議曹從事。後主踐阼,拜諫議大夫,遷左中郎將、大鴻臚、太常。為人靜默少言,闔門自守,不與世事。蔣琬、費禕等皆器重之。雖學業入深,初不視天文有所論說。後進通儒譙周常問其意,答曰:「欲明此術甚難,須當身視,識其形色,不可信人也。晨夜苦劇,然後知之,復憂漏泄,不如不知,是以不復視也。」(中略)年八十餘,延熙十三年卒。著韓詩章句十餘萬言,不教諸子,內學無傳業者。

杜瓊は字を伯瑜といい、蜀郡成都の人。
術数に精通していましたが、天文を観察して解釈(予知)するといったことをやっていない理由を譙周に聞かれたり、自分の子供達にも教えずその術数の継承者がいなかったりしており、術数の扱いにかなり慎重だったようです。
劉璋劉備から益州の従事に任命され、蜀漢では九卿まで出世しましたが、世事に関わろうとしない隠者や高士のような人物でもありました。


この杜瓊と同じように宋書で「術士」と書かれた者が周羣です。あの「當塗高」を解釈した周舒の息子です。

『宋書』巻二十七、符瑞志上
先是,術士周羣言,西南數有黃氣,直立數丈,如此積年,每有景雲祥風,從璿璣下來應之。


『三国志』巻四十二、周羣伝
周羣字仲直,巴西閬中人也。父,字叔布,少學術於廣漢楊厚,名亞董扶、任安。數被徵,終不詣。(中略)少受學於舒,專心候業。於庭中作小樓,家富多奴,常令奴更直於樓上視天災,纔見一氣,即白自上樓觀之,不避晨夜。故凡有氣候,無不見之者,是以所言多中。州牧劉璋,辟以為師友從事。先主定蜀,署儒林校尉。先主欲與曹公爭漢中,問對曰:「當得其地,不得其民也。若出偏軍,必不利,當戒慎之!」(中略)果得地而不得民也。遣將軍吳蘭、雷銅等入武都,皆沒不還,悉如言。於是舉茂才。(中略)
卒,子頗傳其術。

周羣は字を仲直といい、巴西閬中の人。
父の周舒から術数などの知識を教わると、庭に建てた観測台で(大勢居た)家の召使いを駆使した観測体制を日々行っていたとあり、劉備の諮問にも回答しています。杜瓊よりも積極的ですね。息子の周巨にもその技術を伝えています。
官位では劉璋の従事や劉備の儒林校尉。周羣は早くに亡くなったと思われ、杜瓊のように蜀漢で出世することはありませんでした。
彼の「天文」の術は特に評価が高かったようで、陳寿楊戯の論賛で言及されています。

タグ:蜀漢

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