左慈・葛玄師弟の最速パターン?

葛玄が164年生まれ、179年に天台山で降臨した太極真人・徐来勒などから伝授、244年昇仙、という設定が固まった時代の話では、

『歴世真仙體道通鑑』巻二十三、葛仙公
以後漢桓帝延禧七年甲辰歲四月八日誕世。(中略)年十五六,名振江左。時賢欲辟為緣,仙公曰:蔬食被褐,枕石漱流,吾所樂也。豈能以此而易彼哉?乃衣道家服,入天台赤城上虞山,精思念道。所願有得,遂遇真人左元放,授以九丹金液仙經,煉黑保形之衛,治病劾鬼秘法,三元真一妙經。行持三年,廣積功效。靈帝光和二年正月朔,感太上老君劫太極真人徐來勒等同降于天台山,老君乘八景玉輿,從官千萬,正一真人侍焉。

左慈は15~16歳で天台赤城上虞山に入山した葛玄と会うと『九丹金液仙経』を授けられたとしています。
つまり178年か179年頃に葛玄左慈に師事したという話です。


…だいぶ時期が早いですね。
まだ左慈曹操に会ってマジックショーをやるよりも10年以上も前です。

何なら、
江北の廬江・天柱山で『九丹金液仙経』を得る
→江南の会稽で葛玄に『九丹金液仙経』を伝授(179年頃)
→黄巾の乱やら色々
→江北の許昌で司空なりたての曹操に招かれ一悶着(196年以降)
→荊州で劉表と揉める
→江南の呉に到着
→殺そうとする孫策から逃れる(200年以前)
→江北の霍山に入って金丹を完成させて昇仙
という流れを(江北と江南を何度も往来して)2世紀の間で完了できます。
これが最速(?)パターンでしょう。


しかし同時代人の証言による210年代に曹操のもとにいた「方士の左慈」と合わないのは当然としても、「左慈と晩年の弟子達」で紹介したような西晋東晋の文における左慈と弟子達の関係とも合いません。

とりあえず後者については左慈葛玄と別れてから何十年も昇仙せずにの滅亡後も活動していたか、昇仙後に各地の名山に出没して弟子に教えていたとすれば、まあまあ辻褄は合うでしょう。

そもそも葛玄が「釈迦と同じ四月八日生まれ」というわざとらしい設定や「179年に左慈に学んで3年修行して179年に徐来勒に会った」という大雑把な話なので、信憑性は皆無です。
もちろん立派な典拠に基づく世界観であり、創作等では全く問題は無いでしょう。

タグ:後漢 三教志怪

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