郗曇と白兎

『宋書』巻二十九、符瑞志下、白兔
晉穆帝升平三年十二月庚申,北中郎將郗曇獻白兔。

東晋の升平三年(≒359年)十二月庚申(17日)、北中郎将の郗曇が白兎を献上しました。


ところで、これは果たして単に東晋郗曇という者が瑞獣の白兎を献上した、めでたしめでたし、ということなのでしょうか。

まず、郗曇とは東晋前期の重鎮だった郗鑒の子でした。郗鑒は北府の創始者としても知られています。

『晋書』巻六十七、郗鑒伝、郗曇
拜御史中丞。時北中郎荀羨有疾,朝廷以曇為羨軍司,加散騎常侍。頃之,羨徵還,仍除北中郎將、都督徐兗青幽揚州之晉陵諸軍事、領徐兗二州刺史、假節,鎮下邳。後與賊帥傅末波等戰失利,降號建威將軍。尋卒,年四十二。追贈北中郎,諡曰簡。

列伝によると、郗曇は北府を率いる北中郎将だった荀羨が病気になると、朝廷によって荀羨の軍司に任命され、次に後任として北中郎将・都督徐兗青幽揚州之晋陵諸軍事・領徐兗二州刺史となり、下邳に駐屯しました。しかし敵国の傅末波らに敗戦して建威将軍に降格となり、やがて42歳で死去し、北中郎の官位が追贈されました。

これを他の記録と組み合わせましょう。

『晋書』巻八、穆帝紀、升平二年
三月,慕容儁陷冀州諸郡,詔安西將軍謝奕、北中郎將荀羨北伐。
(中略)
秋八月,安西將軍謝奕卒。壬申,以吳興太守謝萬為西中郎將、持節、監司豫冀并四州諸軍事、豫州刺史。以散騎常侍郗曇為北中郎將、持節、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史,鎮下邳。
(中略)
十二月,北中郎將荀羨及慕容儁戰于山茌,王師敗績。

帝紀によると、升平二年(358年)に安西将軍の謝奕(西府)と北中郎将の荀羨(北府)に北伐を命じますが、同年8月に謝奕が亡くなったため謝万が西中郎将となり、また郗曇が北中郎将として下邳に入り、12月に北中郎将の荀羨前燕と戦いますが敗北しました。

『資治通鑑』の注では郗曇が北中郎将になった時期がおかしく、帝紀のは軍司になっただけだろうとしています。

いずれにしても358年に西府・北府の交代があって郗曇は北中郎将となり、

『晋書』巻八、穆帝紀、升平三年
冬十月慕容儁寇東阿,遣西中郎將謝萬次下蔡,北中郎將郗曇次高平以擊之,王師敗績。

翌年、升平三年(359年)10月に前燕に西中郎将の謝万と北中郎将の郗曇は攻撃をかけますが、東晋軍は敗退しました。

これは先鋒は戦って敗れていたのですが、

『晋書』巻七十九、謝安伝、謝万
北中郎將郗曇以疾病退還彭城,萬以為賊盛致退,便引軍還,眾遂潰散,狼狽單歸,廢為庶人。

肝心の大将達は、郗曇が病気のため彭城に撤退し、謝万も敵を恐れて後退しようとしますが軍が潰走してしまったという状況でした。
この責任を問われ、謝万は地位を剥奪され、郗曇(上述の通り)建威将軍に降格となりました。

『晋書』巻八、穆帝紀、升平五年
五年春正月(中略)北中郎將、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史郗曇卒。

その1年と数ヶ月後となる升平五年(361年)の正月に郗曇は死去。


さて、実は郗曇謝万の敗退の責任を負うために宰相である司徒の会稽王司馬昱が降格を願い出たという記録があります。

『晋書』巻十三、天文志下、月五星犯列舍
(升平)三年十月,諸葛攸舟軍入河,敗績。豫州刺史謝萬入潁,眾潰而歸,萬除名。十一月,司徒會稽王以郗曇、謝萬二鎮敗,求自貶三等

それが敗戦の翌月、11月のこと。

つまり、郗曇は病気を理由に撤退した敗戦の2ヶ月後、宰相の引責問題まで発生した1ヶ月に、「白兎を献上した」ということになります。
偶然なのでしょうか。
(どっちでも面白い展開)


そして郗曇は敗戦後も降格されたとはいえ1年余り地位を保ちました。
これに白兎や信奉していた天師道のご利益のおかげという事情があっても面白いですね。


タグ:東晋

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