宋書紹介:列伝第四

宋書の列伝第四は謝晦の列伝です。
(『南史』では、列伝第九が該当。)

謝晦伝:
謝晦は字を宣明といい、陳郡・陽夏の人です。祖父の謝朗は(東晋の)東陽太守、父の謝重は会稽王司馬道子の驃騎長史、兄の謝絢劉裕の鎮軍長史でした。(名門「陳郡謝氏」、謝安の兄謝拠の系統)

初任は孟昶の建威府中兵参軍で、(410年)孟昶が死ぬと劉穆之の推挙で劉裕の太尉参軍となります。刑獄参軍の代行で成果を挙げると刑獄賊曹となり、豫州治中従事に転任して義熙八年(412年)の土断で揚州・豫州の戸籍仕分けを行いました。太尉主簿となり、司馬休之征伐に従軍しました。
謝晦は身なり顔立ちに優れ、博識であり、劉裕からの寵愛は同僚が及ぶものではなく、関洛征伐(416年~)に従軍すると内外の重任を委ねられ、(人事に反対していた)劉穆之の死後に従事中郎となりました。

(418年)宋台が建てられると右衛将軍となり、侍中を加えられます。(420年)劉裕武帝)が石頭城で禅譲を受ける際に宮殿を警備し、中領軍・侍中となり、佐命の功で武昌県公に封じられました。永初二年(421年)、鎮西司馬・南郡太守王華の爵位を誤って北海太守王球?)に与えたことから、侍中を解任されました。
(422年)領軍将軍・散騎常侍となり、武帝危篤の際に徐羨之傅亮檀道済と共に近侍、少帝が即位すると中書令を兼ね、徐羨之傅亮と共に輔政しました。少帝廃位後(424年)、外援として司空徐羨之により行都督荊湘雍益寧南北秦七州諸軍事・撫軍将軍・領護南蛮校尉・荊州刺史となり、精鋭や大量の装備などを与えられました。文帝が即位すると、使持節を加えられ、本位となり(「行」が外れる)、また衛将軍に進み、散騎常侍を加えられました。

(任地の)江陵に到着すると(保身のために)侍中王華と結びつき、娘2人を彭城王劉義康と新野侯劉義賓に嫁がせ、元嘉二年(425年)に妻の曹氏と長子謝世休に建康まで送らせました。文帝謝晦を討つ陽動として北伐などを言い出して舟艦を整えており、元嘉三年(426年)正月に弟の謝㬭が(文帝の計画を)知らせ、江夏内史程道恵が朝廷の動向を得ると、遂に挙兵を決断します。
文帝徐羨之らと子の新除秘書郎謝世休を誅殺し、謝㬭謝世平父子、兄子の著作佐郎謝紹らを捕らえると謝晦はまず徐羨之傅亮の哀悼を示し、2、3日で精鋭3万を集め、王弘兄弟(王曇首)と王華の討伐を表明。
文帝側も諸軍が進み、荊州への布告で謝晦らを糾弾すると共に中領軍到彦之が2万、征北将軍檀道済が3万、驍騎将軍段宏が鉄騎2千で向かい、雍州刺史劉粋や湘州刺史張邵も動くと述べています。
謝晦は召喚途中だった益州刺史蕭摹之と巴西太守劉道産を江陵で捕らえてその財貨を軍資金とし、弟の謝遯を冠軍将軍・竟陵内史、兄子の謝世猷を建威将軍・南平太守、(雍州刺史)劉粋を防ぐ周超を龍驤将軍・雍州刺史とし、謝晦自ら2万を率いて江陵を出撃しました。
その檄文では王弘王曇首王華を糾弾すると共に、南蛮司馬・寧遠将軍庾登之らが1万の先鋒、南蛮参軍・振武将軍魏像らが2千と3千、南蛮参軍・振武将軍郭卓が鉄騎2千を率いて進み、大軍3万が続き、行冠軍将軍・竟陵内史・河東太守謝遯らが1万で江陵を守り、劉粋攻撃として竇応期の5千が義陽に、周超之ら1万が高陽に、朱澹之の5千が雁塞に向かっていると述べています。
謝晦が江口、到彦之が彭城洲に到着し、庾登之が巴陵で進まず、15日の停止がありましたが、中兵参軍孔延秀が3千で彭城洲の蕭欣を攻めて大破・陥落させ、到彦之が隠圻に後退します。
また上表し、自身や徐羨之らの正当性をうったえ、朝廷を非難し、文帝が四凶(王弘ら)を処刑すれば(攻め上らずに)任地に引き返すと述べました。
元々は、謝晦が上流を、檀道済が広陵を強兵で押さえ、朝廷を徐羨之傅亮が掌握することで保身を行う計画でしたが、誅殺の際に王華らの反対に関わらず文帝檀道済を入朝させて西討を任せました。謝晦檀道済が(誅殺されずに)やって来たことを知ると恐懼し、檀道済到彦之に合流すると謝晦の大軍は(士気を失い)散り散りになり、謝晦は小船で江陵まで逃れます。雍州刺史劉粋の弟の竟陵太守劉道済と台軍主沈敞之を沙橋で大破していた周超は(江陵から)到彦之に降伏し、謝晦は弟の弟謝遯や兄子謝世基ら七騎と北へ逃げますが安陸延頭で戍主光順之に捕らえられ、京師に檻送されます。この道中で謝晦は「悲人道」を作りました。

周超到彦之に捕らえられ、既に収監されていた弟の謝㬭らと共に謝晦謝遯・兄子謝世基謝世猷、一味の孔延秀周超費愔竇応期蒋虔厳千斯らが誅殺されました。謝世基謝絢の子で死に臨んで連句の詩を残し、謝晦はそれに続く詞を残しました。享年37歳。(また、参加していた配下の)庾登之殷道鸞何承天らは許されました。

河東の人の商玄石謝晦の参軍で、反逆時に西人の庾田夫らを擁立(官軍に協力)しようとしますが果たせずに軍を率いることになり、平定後に本心が果たせなかったとして投水死しましたが、文帝に認められて子の商懐福が衡陽王劉義季の右軍参軍督護とされました。また、謝晦の逃走時に皆逃げ去ったものの、延陵蓋だけは付き従い、これを文帝が認めて後に長沙王劉義欣の鎮軍功曹督護としました。

(他にも『宋書』の複数の列伝に一族がおり、特に列伝第十六は兄の謝瞻が載っています。)

タグ: 陳郡謝氏

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