華廙の都督区の謎


『晋書』巻四十四、華表伝、華廙
歷黃門侍郎、散騎常侍、前軍將軍、侍中、南中郎將、都督河北諸軍事。父疾篤輒還,仍遭喪舊例,葬訖復任,廙固辭,迕旨。

さて、私は以前から華廙の列伝の「都督河北諸軍事」が怪しいと思っております。
「都督河北諸軍事」は当時の都督区分にそぐわない範囲・地位であり、同時に就任したはずの将軍号も「南中郎将」として噛み合いません。
何かの間違い、例えば晋書の誤字では無いでしょうか。

それでは何か。
この頃の「☓北諸軍事」には「淮北諸軍事」と「江北諸軍事」(又は「沔北諸軍事」)があります。
「淮北諸軍事」なら東中郎将とセット。「江北諸軍事」(沔北諸軍事)なら南中郎将と同範囲です。

「沔」の文字を「河」の文字に置換されている例などはあるので、同様の誤字の可能性はあるでしょう。


羊祜伝などではこの頃には既に江北/沔北の都督が廃止されていたように書かれており、それに従えば「東中郎将・都督淮北諸軍事」が正しい組み合わせとなります。
東中郎将・淮北諸軍事は王渾が273年7月までには離任しており、華廙が就任することは可能。

一方で273年中に下邳王司馬晃が南中郎将から離任したようで、こちらの後任となるのも可能。羊祜伝系統を無視さえすれば、こちらの方が華廙側の記録に近く、有力です。


『晋書』巻三、武帝紀、泰始十年
九月癸亥,以大將軍陳騫為太尉。攻拔吳枳里城,獲吳立信校尉莊祐。吳將孫遵、李承帥眾寇江夏,太守嵇喜擊破之。
(中略)
十二月,有星孛于軫。置藉田令。立太原王子緝為高陽王。吳威北將軍嚴聰、揚威將軍嚴整、偏將軍朱買來降。


『晋書』巻三、武帝紀、咸寧元年
六月,鮮卑力微遣子來獻。吳人寇江夏。

273年~275年はが積極的に動いたり、西晋側も動いたりと活発な時期です。特に江夏方面の衝突が目立ち、荊州は単独の都督で対処するのは難しい状態だった可能性があります。
そこで一時的な措置として華廙が派遣されるも、すぐに父の一件で離任したという流れかもしれませんね。

タグ:西晋

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