北涼と西秦

414年6月、涼王禿髪傉檀の降伏により南涼が滅亡し、その領地を西秦が併呑しました。場所は西平・楽都・晋興・広武など。
この勢力拡大を背景に、同414年10月に西秦の「河南王」乞伏熾磐が「秦王」に即位します。
しかし河西への進出は西秦に新たな展望をもたらした一方で、「河西の覇者」となりつつあった北涼との衝突も招きました。

主な原因は北涼が既に南涼南部の湟河を獲得していたことです。西秦が晋興(浩亹)や広武を制圧すると、この地が分断されてしまいます。

そこで北涼は湟河へ兵糧を輸送する軍を出し、河西王沮渠蒙遜自らも出撃して西秦の広武郡を攻略しました。
続いて兵糧輸送が途切れたりしたため、広武から湟河を目指して進軍を始め、浩亹で迎撃を試みた西秦乞伏魋尼寅を斬り、1万騎を率いて阻む折斐麹景らも大破し(折斐ら7百人を捕らえ、麹景は逃走)、最終的に湟河に到達したようです。
そして沮渠蒙遜は弟の沮渠漢平を折沖将軍・湟河太守として置き、引き返しました。

四涼史地図49

さて、413年7月に東晋の(宰相劉裕の命により)益州刺史朱齢石らが蜀王譙縦を平定しました。
その後、414年(か前年の)冬に朱齢石の使者が沮渠蒙遜のもとに到達、その翌年に沮渠蒙遜が益州へ応答の使者を出しています。
東晋劉裕の下で内外において軍事的成功を収め続けており、遠く離れた河西の地であっても無視できないほどでした。

同時に何度も後秦を破り、北魏とも戦い始めていた国も北涼に使者を送っており、(求めに応じて)沮渠蒙遜は弟の沮渠漢平を派遣して盟約を結んでいます。これは沮渠漢平が「湟河太守となる前」とすると414年末でしょうね。

大雑把に言えば、「北魏後秦西秦」と「東晋北涼」の2外交勢力に分けられる状況。


とりあえず、再び南涼故地の戦いに戻ります。
415年(6月頃?)、西秦の秦王乞伏熾磐は3万を率いて湟河に攻め込みます。北涼の湟河太守沮渠漢平は守りを固めつつ司馬隗仁に夜襲させて反撃しますが、長史焦昶らは西秦に内通しており、遂には焦昶らの説得を受けて沮渠漢平は降伏してしまいます。(隗仁は3日ほど抵抗した末に捕まりました)
広武郡辺りも(結局)西秦の勢力下だったようなので、とりあえず南涼故地は西秦がほぼ回収したことになりますね。

四涼史地図50

西秦は左衛将軍匹達乞伏匹達?)を湟河太守とし、さらに乙弗窟乾を攻撃させて3千戸余りを降しました。
また、尚書右僕射出連虔を都督嶺北諸軍・涼州刺史、(楽都の都督河右諸軍事・)涼州刺史乞伏謙屯を鎮軍大将軍・河州牧としています。
他に西秦の重要人事では、この年に後秦の長安から逃れてきた乞伏元基乞伏熾磐の子)を尚書左僕射としたものや(鎮東将軍?)秦州刺史(・襄武侯)乞伏曇達を尚書令、光禄勲王松寿を秦州刺史としたものがありますね。

また、乞伏曇達らは415年内(冬?)に1万騎を率いて赤水の南羌を攻め降しています。

さらに西秦の秦王乞伏熾磐は漒川の彭利和を攻めました。彭利和後秦の洮陽公であり、やはり南羌の一派でしょう(ちなみに後秦も羌族系)。
そこへ北涼が介入し、沮渠蒙遜が(西秦軍の後背となる)石泉を攻めて援護します。乞伏熾磐は沓中で引き返し、乞伏曇達出連虔に5千騎で石泉の救援に向かわせると、沮渠蒙遜も撤退します。
それからまもなく、416年2月、北涼の遣使がきっかけで北涼西秦が和親(停戦)します。

この前後(辺り)で西秦は吐谷渾を大破して君主の樹洛干を死に追いやり(安東将軍乞伏木弈干の遠征)、後秦の秦州刺史姚艾を降し(乞伏曇達らの東征)、乙弗部の2万戸が帰順していました(後の離反者も涼州刺史出連虔が降し、西平に移住させています)。
ここに西秦の勢力圏がほぼ定まり、以降しばらくは西南の諸部族の討伐が主体となります。

一方の北涼はまた西南方向へ軍を出しており、河西王沮渠蒙遜が金山から沮渠広宗に一万騎で烏啼虜を襲撃させて大破し、また苕藋から前将軍沮渠成都に5千騎で進ませ、沮渠蒙遜自身も中軍3万を率いて後に続くと、卑和虜が降伏しています。
さらには沮渠蒙遜が西へ出て(零海)塩地の西王母寺を詣で、中書侍郎張穆に賦を作らせたりしています。
北涼(河西国)と西秦(秦国/河南国)の西端勢力圏は零海(青海)の南北辺りのようですね。
そして北涼の君主に西(の領地外)を巡るだけの余裕は、西涼が攻撃したくても手が出せないという形でも見られ、河西南部を譲った分だけ領内の安定には成功していたようです。

(ちなみに張穆は敦煌の人で、姑臧を制圧した際に北涼の配下となり、中書侍郎として機密を任されていました)

四涼史地図51

さて、北涼西秦の2強体制としてまだ安定していた西部に対して、中原は前秦滅亡以来の大波乱が起きていました。
416年2月に後秦の秦王姚興が崩御。その死の直前から次の姚泓の代にかけて宗室による反乱が続発して後秦首都圏は動揺、国により上邽の陥落や嶺北全土の喪失があり、さらに同416年8月から東晋劉裕による北伐が始まります。
この新たな情勢に対して西秦劉裕に使者を遣わし、乞伏熾磐東晋から使持節・都督河西諸軍事・平西将軍・河南公とされました(416年冬頃)。

そして翌417年8月に後秦は滅亡しますが、さらに劉裕北魏の3勢力による中原を巡る戦いが続き、五胡十六国時代から南北朝時代へと移行することになります。
一方、同時期の河西では中原とは別に北涼西涼の戦いが激化し、決着を迎えることになりました。

タグ:北涼 西涼 西秦

1件のコメント

[C29] 地図が素晴らしいですね

2年半前から、資治通鑑の翻訳に取り組んでいます。特に魏晋南北朝時代に対応する日本の古墳時代との関係を見いだすためです。私の翻訳は、学生などのために、ほぼ書き下し文にして提供しています。いま99-144巻まで。地図を作りたいと思っていたら。「魏晋南北朝ブログ」を見つけて感動。
できれば、その図を様々使わせて頂きたいのです。今後少部数印刷なども考えたいのです。
まずは私のホームページも御覧下さい。
なお全国邪馬台国連絡協議会副会長で中四国支部長もしています。よろしく。

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